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石内都と楢橋朝子のインディペンデント精神が結実した『main(マン)』

目次

はじめに

1990年代後半から2000年代初頭にかけて、石内都と楢橋朝子の二人の写真家によって発行された自費出版雑誌『main(マン)』は、日本の写真史において重要な位置を占める存在となりました。この雑誌は、二人の写真家が自らの作品を発表する場としてだけでなく、写真界の新たな潮流を切り開く媒体としても機能しました。今回は、20年を経た今、改めて『main』の創刊から終刊までの道のりを振り返り、その意義と影響を探っていきます。

創刊の背景と動機

『main』が誕生した背景には、1990年代の日本の写真雑誌界の変動があります。写真雑誌の勢いが衰え、カメラ雑誌の編集者たちも次第に姿を消していった時代、石内都と楢橋朝子は、自分たちの作品を発表するための新たな方法を模索していました。

楢橋朝子は、自身の写真を発表するために自主ギャラリー「03FOTOS」を開設し、作品を発表していましたが、印刷物として作品を残すことの意義に気付き始めました。そのタイミングで石内都が「一緒にやろう」と提案し、二人のコラボレーションが始まりました。石内都は、以前所属していたグループ「写真効果」で雑誌を作った経験から、雑誌というメディアの可能性に魅了されており、楢橋の提案に共感しました。

雑誌のコンセプトと制作過程

『main』のタイトルは、石内都(Ishiuchi Miyako)と楢橋朝子(Narahashi Asako)のイニシャル「M」と「A」を組み合わせ、フランス語で「手」を意味する「main」から取られました。このタイトルには、女性二人が手を取り合って何かを創り上げるという意味が込められています。

雑誌は基本的に毎号8ページを二人の作品や文章で埋め、そのほかのページには対談や好きな写真集・本の紹介を掲載しました。編集方針はあえて設けず、自然体で進めることを大切にしました。デザインは友人のデザイナーに依頼し、1日で缶詰になって作成するというスタイルでした。発行部数は毎号約650部で、手売りやイベントで販売されました。

雑誌と展示会の連動

『main』の発行と並行して、03FOTOSでは『main』で発表された作品を中心にした展示会も開催されました。雑誌と展示会の連動は、新しい作品発表の場を提供するだけでなく、来場者の幅を広げる効果もありました。

自費出版の意義とインディペンデント精神

自費出版という形式を選んだ理由には、誰の制約も受けずに自由に表現するというインディペンデント精神がありました。当時の写真界では、商業写真とシリアスフォトがはっきりと分かれており、自分たちの作品を自由に発表できる場が限られていたため、自費出版は重要な選択肢となりました。

また、日本の写真家にとって、写真を本の形にして残すことには独特の文化的アイデンティティがありました。これは、東松照明や森山大道といった先駆者たちが自費出版で写真集を発表してきた伝統にもつながります。

雑誌の影響と評価

『main』は、刊行から20年が経った今でも、その鮮烈な存在感を失っていません。二人の女性写真家が共同で作り上げたこの雑誌は、写真史においても貴重な資料となっており、写真表現の多様性と自由を象徴するものとして評価されています。

石内都と楢橋朝子の対談によると、編集会議はお互いに会いたい人を選び、ゲストを招くというスタイルで進められました。編集方針を設けずに進めたことで、自然体の対談や写真集の紹介が可能となり、結果的に雑誌の内容が豊かになりました。

まとめ

『main』は、石内都と楢橋朝子という二人の写真家が、自らの作品を自由に発表し、写真界の新たな潮流を作り上げた自費出版雑誌です。そのインディペンデント精神と自由な表現は、20年を経た今でも色褪せることなく、多くの写真家や読者に影響を与え続けています。

この雑誌は、商業写真やシリアスフォトの枠にとらわれない、新しい写真表現の可能性を示すものであり、写真史においても重要な位置を占めています。『main』の刊行を通じて、二人の写真家が追求した自由な表現とインディペンデント精神は、これからの写真表現にも大きな示唆を与えることでしょう。

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この記事を書いた人

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